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HNさんへ

 投稿者:寿司  投稿日:2019年 2月 3日(日)10時37分51秒
  私は森田療法で
治ったかどうかでは
なく、東洋的な考え
方を好みます。
仏教や哲学は大変素晴らしい。
人間は生活してればいいと
言う問題ではありません。
深いことを馬鹿にする
人間はいずれつけが
回ってくると思います。
森田療法が正しいかは
私には分かりません。
私は神経症の専門家じゃないので。
しかし薄っぺらい話しを
する人間は必ずつけが回ってくる。
仏教や哲学を無視する人間は
後悔するでしょう。
 

小学6年生女子です。 私は自分が生きている意

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 2月 2日(土)20時19分21秒
  小学6年生女子です。
私は自分が生きている意味、理由、が全くわかりません。
なぜこの世は存在し、宇宙があって、その中に地球があり、私は存在しているのか。
もしかして離人症ですかね?

関わった物事に対して、喜んだり、悲しんだりすることは出来ます。
でも、数ヶ月くらい前から自分の行動、感じたこと、目に見えるもの、すべて画面越しに見ているような感覚になります。(伝わりにくいですが..)
もしかして、母や父、友達、ペット、生き物。今生きている世界は夢の中なのではないか。
初めから私の運命は決まっているのではないか。
そんな風に私が今生きていることに謎の不安感を抱きます。
この話だけだと、普通のことじゃないか、と思うかもしれませんが、そのことばかり頭にあり続けて、なかなか夜も寝れません。授業も話は耳に入ってくるのですが、やはり集中できません。
食欲もあります。物事の判断、選択もできます。でも、小さい頃に比べると、生きている実感がありません。別に病んでいるわけでもないので、リストカットなどの自傷行為はしません。そんなことするのはおかしい、という考えが浮かびます。

流石に小6なので、恋愛は未経験ですが、少し前まで好きな人はいました。でも、告白して振られたので諦めました。それが原因で今に至ったわけじゃないです。今は、この人いい人だな、とか、もし○○と付き合ったら、とかそういう妄想はしますが、何かに対して、好きという感情が薄れてきました。

毎日毎日いつでもどこでも生きている意味について考えすぎて、ついに精神がおかしくなってしまったのかと思います。

長々とすみません。真面目に、精神科に行った方がいいと思いますか?


補足
皆様、温かいお言葉本当にありがとうございます!
本当に小学生?という声もありますが、本当です。
生理も始まったし、思春期なのかなーとも思います。

たくさんの意見の中で特に
・生きる意味を探すこと
・今自分が生きている時間を大切にすること
↑という意見に納得しました。

道徳の授業のようになってしまいましたが。回答してくださった皆様に感謝しています!!



>>>管理人


もう70歳になったものですが、中学生になったころに貴方と同じような事でかなり深刻に悩んだ事が在ります。同じ事ばかりを考えてしまったために、心が自由に動く事が無くなった状態、ノイローゼの状態になった事が在ります。

死ぬのが怖いと思った事です。毎日明けても暮れても死ぬのが怖い状態になった経験です。

生きた心地がしなくなっていって、生きている感覚が失われた状態に成って居ました、死に対する恐怖症になったと言った経験でした、この事が原因で、離人症に成っていました。

心を病むとか、気が振れたとかを、他人が何も言わなかったので、自分も何も言わないでいました。

そうして悩みながらも生きていったのですが、27歳になった時今の家内と出会って結婚をして、一年後子供が生まれたあたりから、『心が又苦しくなってしまって、にっちもさっちもゆかなくなりました。』

たまたま町の本屋で、ノイローゼ関係の本を見た事から、その本を購入して著者である鈴木知準先生の所に行って、入院森田療法を受ける事になりました。

二か月間の入院治療を受けて、生活態度の誤りと言った事を学んできました。先生の本棚に『鈴木大拙全集』と云ったものが置かれていました。

時々、先生が口にしていた言葉があります。『ノイローゼは悟りを開かないと治らない』という事と、『ノイローゼになった一年は、座禅を十年した事と同じ』でした。

うちに帰って、鈴木大拙博士の本を買って、沢山読みました。そうして退院してから4年後の事です。自分の心が『自分の中の無意識の意識』と出会うと言った体験がありました。この体験で『ノイローゼは完治しました。』

貴方に言いたい事は、『毎日毎日いつでもどこでも生きている意味について考えすぎて、ついに精神がおかしくなってしまったのかと思います。』

の理由です。禅を学ぶ事に付いては、師匠は何も教えて呉れる事はありません、又禅には何も教える事など無い、と云った立場です。

処が、『人間に疑問が沸き上がった時、その答えはもう既に心の中に用意されている。』と言った立場を取っています。

弟子が『人生とは何でしょうか?』と師匠に聞くならば『お前はなぜそう思うのか?』と聞くだけです。疑問が沸き上がったその大元に答えは用意されている事を示唆しています。

もう少し時間がたった時に、鈴木大拙博士の本でも読んでみる事がおすすめです。貴方の抱えている疑問の答えは貴方の中に既に用意されています。

時間は掛かるかも知れませんが、道に至るとか、見性(自性を見る)事で貴方の疑問は解消出来ます、処が答えは誰も教えてあげる事が出来ない問題と思います。

気長に構えて下さい。
 

大阪市在住50代男性 様へ

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 2月 2日(土)19時51分39秒
  貴方の質問には答える事が出来ないようです、無意識の意識との対話はやった事がほとんどないからです。又この意識の主人公になって『何も怖くないが悲しみと笑いは感じているのでしょうか?』と云った体験は皆無だからです。

大変申し訳ありません。
 

無意識の意識について

 投稿者:大阪市在住50代男性  投稿日:2019年 2月 1日(金)23時53分35秒
  現代、このサイトは全く見ていませんが、今日の午後16時頃の体験から管理人さんを思い出して
初めて投稿します。
自分が人と話をしている姿を天井から見てしまう様な体験です。約5秒程度でした。
これが自分の姿を客観的に見ている無意識の意識でしょうか?
無意識の意識は、何も怖くないが悲しみと笑いは感じているのでしょうか?

 

漠然とした不安について。 読んでいただきありがとうございます

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 2月 1日(金)20時34分48秒
  漠然とした不安について。
読んでいただきありがとうございます。

私は外に出たら地震などが起きた際にガラスが割れて自分に降りかかってくるのでは無いか、また狭い場所を通ったり潜ったり

すると挟まって圧死するのではないか、信号待ちをしていても常に車が突っ込んで来たらどうしよう、バスに乗ればどこかに追突してバスの窓ガラスを割り何かが突き刺さってきて死ぬかもしれない、など日常的に不安と緊張の中毎日を過ごしています。

現実的に考えてそんな確率は中々無いと頭では理解しているのですが、体がどうも拒否をするのか不安になり手が震えたり勝手に涙が出てくる場合があります。

他にも些細なことを気にしてしまい友人知人の会話の中でも何か言ってしまったかもしれない、嫌な思いをさせたかもしれないなど不安になる要素が沢山あります。
考えすぎだよ、もっと気楽に考えなよと言われることが多いのですが、私自身幼い頃から家庭内でもずっと人間関係での不安を感じながら生きてきました。

少しずつでも改善させたいのですがどうすれば少しはマシになりますか?やはり病院などにかかった方が良いのでしょうか?それともこう考えると気が楽だ、などそういったご意見があれば聞かせていただけますと幸いです。お知恵をお貸しください。よろしくお願いいたします。



>>>管理人


考え方の変更が出来るなら、楽天家になる事も可能と思います。今の貴方の考え方ですと何が起きても『自分には不利』な事に捉えているようです。

この考え方がマイナス思考というものと思います。この考え方を替えてプラス思考になる事が出来た時に、楽天家になっているという事になると思います。

貴方の考え方の根底に、何でもかんでもストレスにしている部分があります。つまり良い事だけは受け容れたいとして、嫌な事だけは避けて通りたいとする心です。

多かれ少なかれ誰でもがそう願っている事は事実と思います。処がそう云った調子が良い事は起きる事の方が稀だと思います。

誰にでも良い事が有ったり悪い事が在ったりして、一年が過ぎて行って二年とか三年が過ぎて行くと思います。

貴方の考えが、良い事も悪い事もどっちが訪れた処で、受けれざるを得ない、と思う事が出来たなら、もう半分は楽天的な人間になっています。

もっと楽天的な人間になるには『嫌な事が来ても受け容れるよ!』と決心する事です。そうなるなら、嫌な事でも平気になっていますので、普通の事とか、良い事が在った時などは、大変な喜びになっています。

今の貴方がマイナス思考の理由は、嫌な事とか好きな事とかの分別が激し過ぎるからです。良い事も悪い事も分け隔てをする事なく受け入れる練習をして、結果的に良いとか悪いとかを言う事が無くなった時、貴方は楽天的な人間に変化しています。
 

吃りがひどくなっていく原因を教えてください

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 2月 1日(金)20時31分42秒
  吃りがひどくなっていく原因を教えてください。

あと その人と接する時に気をつける事も教えていただけたら助かります。

40代 男性
小さい頃から少しの吃りがあった。

3年前に知り合い 話すようになりました。
気にならない程度の吃り。
ここ半年位でひどくなってきました。
興奮?楽しくなってきたり、自分が話したい事や何か説明をする時に うまく言葉が出てこない感じです。出ても吃ります。
私はゆっくり聞いているだけです。


>>>管理人

吃音は神経症の一症状です、神経症の場合では症状別の対処方法は効果がありません、神経症としての対処方法をする事で、色々な症状が皆改善されると思います。

神経症の原因は一つだけです、その原因は『心同士の仲違いです。』分り難い書き方をしていますが事実です。人間の行動が一番確かな状態を挙げるなら、優勝が掛かった時の一打を的確に打てるかどうか?という事になると思います。

オーストラリアでの大阪ナオミ選手の動きです。人間の身体も心も、『自意識で制御する事は出来ないようになっています。』意志の力を込めた時が神経症になっているからです。

上手く吃音にならないようにして話そうと、意志の力で話をする時吃音になっています。

書痙というものがあります、是は或る日自分の手の震えに気が付いた事によって『自分の意志の力で震えを止めてしっかりと字を書こう』と努力をする事から発症しています。この発症によって更なる症状の改善の努力が始まるようになっています。

処が努力をすればする程、字が書けなくなっています。終いには両手で書くようにしますが、やっぱりうまくゆかなくて途方に暮れるようになります。この手の震えを医師が経験した場合では悲惨な結果になるようです。

手の震えによって、傷を付けてはいけないところがあるからです。神経症を治すまでは手術が出来なくなるからです。

人間の場合では、上手くやろうとする場合では『予期不安』に苛まれてしまって、無意識の自分と交替出来なくなります。是が神経症の正体です。

吃音の人がうまく話しが出来るための方法は幾つかあるようです。一つは逆説志向というものです。吃音で話をさせる方法です。

上手に吃音で話をするようにしてもらう方法です。吃音が出なくなるようです。
吃音で話をする事で吃音を受け容れる事が出来た段階で吃音が治った事になります。

吃音が出て困るようでしたら、『もっと吃音で話をするように努力をしてもらって下さい。』吃音で話をする努力が出来た時、吃音は引っ込んでしまう様です。

ぜひやってみて下さい。



<<<質問した人からのコメント



詳しい回答をありがとうございます。
吃音に関しては3年間の間で
「僕、少し吃音あるよ」という事を聞いた時だけで あとは一切話した事がないです。
私が勝手に「仕事するにも、改善した方がいいのに」と思ってしまっているだけで 本人はもしかしたらなんとも思っていないかもしれません。
悩みとして打ち明けられる時が来たら 話してみようと思います。
しっかり覚えておきます。
 

前回の投稿に付いて( 投稿日:2019年 1月26日(土)

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 1月27日(日)11時38分30秒
  この投稿は、斎藤氏がここのホームページに投稿して来たものの一部です。人が投稿して来たなら『HNは人の掲示板に来てまでも、アドバイスを書き込む。しかも求めてもないのに。
斎藤は決してしない。この違いが狂っているか正常であるかの違いだ。』

と言いながら自分ではもっと多いかも知れません。

自分の事を棚に上げて人の事を過大にあげつらう性格は、神経症の人に多い傾向があると思います。かくいう私にもその傾向が多分にあると思っています。
 

HNは人の掲示板に来てまでも、アドバイスを書き込む。しかも求めてもないのに。

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 1月26日(土)19時54分18秒
  [3731] ああしろ、こおしろ
 投稿者: 管理人 投稿日:2019年 1月26日(土)09時06分21秒   通報   返信・引用


HNは人の掲示板に来てまでも、アドバイスを書き込む。しかも求めてもないのに。
斎藤は決してしない。この違いが狂っているか正常であるかの違いだ。



完治   投稿者:斎藤   投稿日:2018年 1月 1日(月)08時22分35秒


   神経症とは完治根治を言いながら一生を終わる精神病です。だからファン氏も間違っているし、
答えている管理人も間違っている。神経症が治るとは、完治根治はどうでもよい世界に移る
ことなのです。


斎藤 様へ   投稿者:管理人   投稿日:2018年 1月 1日(月)14時07分41秒


   治ったとか治らないとかを問題にしない世界に入る事は、貴方の書いた通りと思います、従って治らない人は気持ちが悪いとか、治った世界は気持ちが良いとかを言う事が無くなるという事だと思います。

日頃から貴方の言っている事を書く時はこのようなチグハグだと感じた時だけです。

神経症が完治した世界とは、神経症の症状をすっかり受け入れてしまう時です、同じ『湧き上がった感覚』を受容した時が完治した時であって、毛嫌いしている時は神経症の真只中にいる事を証明している事を意味すると思います。

神経症者は気持ちが悪いと言い切る人はどっちかな?


学ぶ   投稿者:斎藤   投稿日:2018年 1月 7日(日)15時46分32秒


   神経症とは精神病であるから、学べば治る対象ではない。学べば治ると信じつつ、
一生学びを求めて終わる強迫状態の自分にストップをかけられるかどうかの問題である。


キチガイにあり続けるとは   投稿者:斎藤   投稿日:2018年 1月13日(土)07時27分45秒


   自分の脳が治りの一点に絞られて、それ以外は盲目になっているのに気が付かない。
この状態で目的を達成しようとすると膨大な無駄が待っていて、人生は神経症で終わってしまう。
神経症を治すとは、キチガイから健康に戻る事なのです。



雑用の 山が待っているはずだ。   投稿者:斎藤   投稿日:2018年 1月12日(金)20時23分20秒


   誰もやるべきをやるなんて言っている人はいない。健康な人では、何かする時に言葉が邪魔しない。


カウンセリングはだめ   投稿者:斎藤   投稿日:2018年 1月17日(水)12時43分54秒


   カウンセリングとは患者を餌にして医師らしい者が金を儲ける方法でしょう。
神経症とはもっとも難しい心の病であり、誰もカウンセリング


知的理解   投稿者:斎藤   投稿日:2018年 1月18日(木)16時56分10秒


   知的理解は神経症を更に悪くする。それを避けるベストな方法は、体を動かすのです。


信用するにはあまりにも良すぎる   投稿者:斎藤   投稿日:2018年 1月23日(火)20時03分8秒


   「もうかなり昔になります、今69歳ですので42年前に鈴木知準先生のお世話になった事があります。講和という時間があって、----------------当時の症状名は『死に対する恐怖症』ですが、このために生きた心地がしなくなって『離人感』で苦しんだ事、生き難い想いがまるで嘘のように思われます。毎日を安楽に過ごせています」


どうもこの話は出来過ぎていて信用出来ない。こんな緩解の例は過去20年見たことありません。
私の経験によると、神経症を治すにはどうしても体の動きを必要とします。
体の動きなしに、単に悟りだけで治ったは、信用するにはあまりにも話が出来過ぎています。


信用するにはあまりにも良すぎる    投稿者:管理人   投稿日:2018年 1月24日(水)07時36分30秒


   斎藤さんへ

『ある日本屋で、本を見て、その瞬間に治った。』という文章を見た事が在ります。私から見たり貴方から見ても『信用するにはあまりにも良すぎる 』と思いませんか。


悟り   投稿者:斎藤   投稿日:2018年 1月18日(木)20時21分46秒


   鈴木大拙が言っているね。そもそも悟りなんてものは最初からないのだと。
なら、そんな所でぼさぼさしていないでどんどんやったらどうかと言う。
ぼやぼやしていると警策が飛んでくる。



斎藤 様へ   投稿者:管理人   投稿日:2018年 1月19日(金)09時03分11秒


   今の曹洞宗も貴方と同じことを言っているようです。悟りなどないという事です、もしもそうだとするなら、禅宗の問答とか、或は無門関などの禅の本の内容はなにを言っているのか?という事になると思います。

禅宗の眼目とする事は、ただ一事を目指していると思われます。それは『生死の問題の解決』です。この他には宗教としての目的は無くなってしまうと思います。

悩みとか苦しみとはその元をたどってゆくならば、必ず『自身の生死』に辿り着きます。自身の生死の問題が解決する時、全ての人生の悩みとか苦しみとか、疑問は解消します。この一事が禅の眼目とするところだと思います。

斎藤さんとは見方が違うかも知れませんが、そういう違いがお互いの個性を形作っていますので、それはそれでOKと考えています。

まだまだ数え上げるなら、切際限なく出て来ますが、忙しいのでこの辺で止めにします。

 

再掲です、人間の持つ「安心感」についてお尋ねします。

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 1月25日(金)23時11分40秒
  2013/11/3000:17:52

人間の持つ「安心感」についてお尋ねします。

例えば現実的ではありませんが、横幅が1メートルもある広い平均台は誰でも渡れますね。
しかしその広い平均台が高さ100メートルにもなりますと、落ちたら大変とばかり急に尻込みします。
この「安心感」「恐怖感」を示す心理学用語は、何と言いましたでしょうか?



>>>管理人


心理学用語での名称は、あるのか無いのか知りませんが、全人格的な表現で言い表すなら『意識する事』と表現出来ます。『横幅が1メートルもある広い平均台』の場合では、自分の心=自我意識は歩く事をしていません、『身体が勝手に自動運転モードになっているからと考えられます。

言い方を替えるなら、『無意識の自分にまかせきっていて、自我と言う心の出番がなくなっているからです。』遠足などでの長い道程を歩く時を思い出してみてください。『心』は歩く事に使われていません、『心は』話に夢中になったり、携帯電話が鳴ったりして話し込んだとしても、『歩く事が滞ることはありません、歩く事を、自分の心がしていないからです。』

このように人間の順調な行動は、『自我意識がでしゃばらないでいる時』疲れる事も無くて、一番正常に出来ています。

人間の心の使い方が、『正しい場合では』無意識の自分とうまく交替制がキープされている時です。そうして緊張する場面であっても『日ごろの訓練の成果を十分に出せる事を』メンタル面が強いと表現します。無意識の自分に任せられる時です。

その反対に、優勝が掛かった一打を打つ場合などで、身体も心もがちがちになって『身体と心の自由を奪われたと言うような場合をメンタル面が弱いと表現しています。』自我意識が単独で『身体と心を自由にしようとする場合です、出来ません。

この違いは『練習の積み重ねとあいまって』自我意識が如何に出ないでいられるのかが、行方を決めています。言い換えるなら『如何に無意識の自分を信頼して任せておく事が出来るのか?』と言う問題になります。

高さ100メートルにもなりますと『自我意識は引っ込めなくなっているからです。』そういう場合では『身体も心もくたくたになってしまいます。』遠足で長い道程を歩く場合と反対になっています。

うつなどで、身体と心が疲れやすくなっている理由と重なっています。自我意識が出たままになって意識地獄の状態で『身体も心も疲れやすくなる場合では、自分の無意識の力を信じられなくなっているからです、言い替えるなら、無意識の自分と仲違いしているからです。』

自分の脳内の、無意識の”心”(無意識の意識=内在する識られざる神)と、対面している動画がありますので、良かったら見て参考にして下さい。URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM

もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。

オリンピックなどでの、最高に緊張する場面で『リラックス出来る場合をメンタル面が強いと表現しますが、右脳の意識に身体と心を預ける事が出来るという意味になります。』

その逆に左脳の自我意識がでしゃばった場合では、眠る事が出来なくなります。眠ろうと『意識するからです。』眠りに入るという意味は『自我意識が無くなって行って、完全に無くなった時、無意識の自分に心の管理から身体の管理まで、任せている事を意味するからです。』

自我意識が単体で眠れるものだという勘違いを『不眠症』と呼んでいます。無意識を勘定に入れなくなった場合です。心は意識と無意識の共同作業で成り立っています。動画に在るとおりです。

人間の安心感とは、二つの心が一つになって調和が取れた状態の事です、不安感は『自我意識が単独ででしゃばっている場合です。不安感や罪悪感や漠然とした不安とは、もう一つの心からのアピールです。』

自分自身を否定している事に対する警告と云っても良いものです。もう一つの心は『一念として湧き上がっている心です。』

自分の一念を自分の二念が否定している事から『全てに対して否定的になっています。』良い事も引き受けて、悪い事も引き受ける時全てが好転します。


<<<質問した人からのコメント


素晴らしいご回答でした。
自我意識と無意識のご説明も納得出来ましたが、右脳と左脳のお話も面白かったです。
テイラー先生の著作は「奇跡の脳」が手許にあります。いつか読み返したいと思いました。


 

再掲です。「武士道」の素晴らしさについて、教えてください

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 1月24日(木)19時33分59秒
  2014/2/113:29:07

「武士道」の素晴らしさについて、教えてください。


>>>管理人


武士道の根底に存在するものは『禅』です、禅の根底に存在するものは、人生そのものです。この意味は、人は誰で自分は生きていると思っていますが、本当の意味では生きていません、その理由は『自分自身が何者か?』という事すら知らないでいて、知る事に『不安や恐怖』さえ抱いているからです。

生と死の暗闇の前で、生と死の実態に目を瞑っている部分があるからです、生と死を学ぶ事さえやろうとしていない現実があるからです。

禅はその事を教えています。生を明らめて、死を明らめる時、人生は再び光り輝き始めるようになります。『死を恐れる余り。何も出来ないでいた場合では、何も恐れるものが無くなる。』と言う意味があるからです。

一回きりの人生に『恐れるものなどなかった事』が、分るからです。そういった心境を『生死の問題が解決した』と、禅は言います。

自分自身が何者か?と死を明らめる事は同じ意味があります。自分自身の中に『自分自身が知らないでいる自分が潜んでいる事』が、漠然とした不安感や、パニック障害の元になっている『不安を拡大したもの=恐怖感』を作り出しています。

不安感は『自分自身が自分自身に抱いている感想です。』他から与えられたものではない事を『禅』は教えていますので、自分自身を知る時『全ての問題は解消します。』

この時になって、『何者も恐れないで戦う事が出来ます。』死でさえ恐れる事がない人間になりますので、武士道の根底にある思想を学ぶ事は、現代でも役に立つ筈です。

その効用は神経症でも、自律神経失調症や過敏性腸症候群や、果ては心を病むことの完治にも繋がっています。その理由は人間の意識の根底の『不安感や恐怖感』がその大元の動機になっているからです。

自分自身がはっきりと意識出来ないでいたとしても、『不安感や、恐怖心』の大元には『自分自身の死の影を垣間見ている事』が関係しているからです。言い替えるなら『自分自身の、”永遠性”を願望させる者の存在』も同時に垣間見ているからです。

この二つの相反する”意識”の矛盾が『心の矛盾』となって、自分の心を苦しくさせています。生き難さの原因は心の矛盾が原因だった事を『禅』は教えている事を意味します。

死を恐れない生き方の根底には『良い事も悪い事も分け隔てしないで』受容すると言う意味があります。全ての障害の元は、良い事と悪い事を分け隔てをする、人間の心の性質とも言う『分別作用』が働いているからです。

『分別を捨てた時』人間の心は、良い事にも悪い事にも左右されない本当の意味での安心が待っています。

更にもう一つ付け足しておくなら、『見返りを求めない生き方』があります。『無功徳』と言う意味が分る事が道に至った人の生き方を根本的に支えているからです。

幸福にも不安にも恐怖でさえ覆す事が出来ない、一つの生き方を、『禅』は教えるものなど何もない、と言いながら、教えているからです。
 

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