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仏に会ったら仏を殺せ の件

 投稿者:AZ  投稿日:2018年 6月 9日(土)10時22分25秒
  も消されたのでこっちに書かせてください。
これは自分への戒めとしても書いたことです。


斎藤さんの仏に会ったら仏を殺せの文章がこれ。
http://mui-therapy.org/zen/zen.htm

師として参考にした教えであっても、
崇拝、絶対視して寄り掛かるのはやめよということ。

そして、これには別の意味もあると思った。
「アンチとして否定することに執着して寄り掛かるのもやめよ。」

崇拝して寄り掛かることだけではなく、
アンチとして執着して寄り掛かることもやめよという意味にもとれる。
事実、アンチ教もまた麻薬でありカルト教である。
アンチテーゼということをある意味絶対視しのめり込むことだから。

斎藤さん自身、森田療法アンチということに執着し続けた人。
それで自他共に多くの無駄や争い、ストレスを生んできた。
森田療法も万能ではないから元々それに疑問を感じてた人はいて、
その人らにとってはアンチテーゼが参考になることもあったのだろうが、
物事は程度問題である。度を越すと否定のカルトになって争いや損失を生む。全否定ではなく丁寧に説明する必要もあったのだ。

斎藤さんのそのアンチカルトという無駄を反面教師にすればいい。
斎藤さんアンチというのも結局無駄。

仏に会ったら仏を殺せ。
崇拝で寄り掛かるのもアンチの執着で寄り掛かるのも
やめたほうがいいと。




 

物事になり切る

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 6月 9日(土)10時06分39秒
  斎藤氏のホームページを見たところ、題名の記事が乗せられていました。


以下がその内容です。

『物事になり切るは神経症の患者の言葉であって健康な人、神経症が治った人は言わない。世界中の誰が、物事になり切る努力をしているだろうか。我々が神経症になる前を考えても、そんな事した覚えがない。
これを言い始めたのは森田とその弟子達であり、彼等は物事になり切れば神経症が治ると指導した。明らかに神経症を治すための取引であり、森田自身が神経症の患者であったのを示している。

神経症が治った斎藤はどう言うか。
物事になり切るとか、なり切らないとか言っていないで、立ち上がってどんどんやれと言う。その辺で青い顔して天井を眺めている姿が精神病であり、とても会社では仕事は出来ないし、家でも大変なお荷物になる。
普通にしていれば、人間も動物も皆物事に自然になり切るのに、何故努力をしなければならないのかと違和感を覚える。

厳密に言うと健康な状態では必ずしも物事になり切っていない。お勝手で皿洗いをしている時など、心は何か別な事を考えている。脳の深部には意識切り替えスイッチがあり、どの方向に意識を向けるか自動調節をしている。自然は良くできたもので、意識しなくても脳は必要な方向に意識を向けるように出来ている。
自然に意識が向くのに、 ”物事になり切る”と敢えて念を押すと、意識活動に妨害を与える事になり、不愉快に感じる。理由は、そこに精神症状を見るからである。

意識をこうすれば神経症が治ると取引したものだから、返って意識がおかしくなり、残念ながら大半の神経症者は ”物事になり切る”努力をしつつ一生を終えてしまう。』


是は本当の意味を捻じ曲げています。物事に成りきるという意味は、オリンピックでの体操とかフィギュアスケートでの演技中の選手の心持を語っているのだと思います。


『自然に意識が向くのに、 ”物事になり切る”と敢えて念を押すと、意識活動に妨害を与える事になり、不愉快に感じる。理由は、そこに精神症状を見るからである。

意識をこうすれば神経症が治ると取引したものだから、返って意識がおかしくなり、残念ながら大半の神経症者は ”物事になり切る”努力をしつつ一生を終えてしまう。』

こう考える事によって、再投資の場合では入院森田療法に於いての治癒が長引いたのではないのかと考えられます。

神経症が治った後なら、自然とこう言った『物事になり切る態度』が体現できるようになります。


『物事になり切る態度』を神経症の治る為の必須アイテムと考えて行動をした場合では、治らなかった時代の斎藤氏や、現在の一休さんになっていると思います。

神経症は『治らないものであった』という事を納得をした場合だけ、神経症が治る事を意味していますが、余りに難しいので、神経症を理解出来る人が少ないのかも知れません。


是を雑用療法に置き換えてみるなら、『誰が雑用雑用と言って日常の生活を送っているであろうか?そういう人がいるなら雑用をすれば治ると信じている、雑用信者である。』

雑用をすれば治ると考えて雑用をしている間は治る事が出来ない、治る事や治す事を忘れて只必要に応じて雑用をやっている時は治っている。只言える事は『治す意図』を忘れている時は治っている事を意味しています。



 

(無題)

 投稿者:AZ  投稿日:2018年 6月 9日(土)09時59分45秒
  あと、斎藤さんは2chでもずっと嵐行為をしてた人。
認知療法や森田療法、マインドフルネスなどの掲示板に出没しては
「それらは無意味でそれで治ることは皆無。全て詐欺だ。」という書き込みの嵐。それで信念から正直に無為療法を紹介するかと思いきやそれは全くしないで否定するばかりの嵐。

悪質な元のブーメランを投げ続けた人。
 

無為のほうの掲示板で消されるのでこちらに。

 投稿者:AZ  投稿日:2018年 6月 9日(土)09時53分56秒
  likehellさんの、斎藤さんに絡むな無視しろの忠告
全体としてはまことに正解です。
ただ何故絡むことになるのか、その因果は知るべきです。

私、犬さん、海さん、HNさん全て無為のほうで書き込みをやめても、
状況は変わらないと思います。
因、ブーメランとなる元の悪質な書き込みは斎藤さんが元々投げてるものだからです。鏡となって巻き込まれる者は後に続くでしょう。

・世界で治ったのは雑用の会だけ。
他の奴等は全部治ってない。クズだ。
無為療法はノーベル賞ものだ。
・それでも神経症者の書き込みがないと寂しい。書いてくれ。
(他の人、書く)→こいつらの書き込み狂ってる。クズだ。
それに比べてなんて雑用に励む私はなんて健康世界なんだろう。
世界で治ったのは数人だけ!

結局無視しろは正解です。
 

おだやかなる日々。

 投稿者:自然Yukiko  投稿日:2018年 6月 4日(月)03時53分57秒
  瞬く間とは瞬きの目を閉じる間、真実を見る間と気がつきました。
そうして目を閉じることに意識を向けると心が落ち着いてきます。
見ることによる心の弊害、比較からの解放です。
そういえば、未だ神を見たものはいない。悪魔はその美しさに自惚れて高慢になりとか
眼に頼る弊害が不安の原因かとも思えます。恐怖はまさしく禁断の実を食べ目がひらけたことによる
結果なのかとも。
左脳の働きである現実、受け入れることのできない状態から
目を閉じた真実の世界の中にいる喜びへと心は大きく広がります。
瞬間の持つ意味。目を閉じるその間の真実。心が逆転しました。

 

お久しぶりです。元気です。

 投稿者:自然Yukiko  投稿日:2018年 6月 1日(金)21時29分4秒
  幼い頃、食べた川原の堤防のグミが懐かしく僅かばかりの庭にグミの木を植えました。
今年はいっぱい実がなり懐かしさひとしおです。
瞬間とは瞬きの間と思っていました。いつも瞬きはあたりまえのことです。
目を閉じると瞼の内側を見ているのですね。
瞬間はそれを捉えることはできないけど見ているのですね。
それが瞬間なのかと。
眠りにつくと夢を見ます。目を閉じて見るものです。
映ったものではありません。
瞬きの間実際を見ているのかなと思った次第です。
目を閉じてこそ本物が見える瞬間という言葉の持つ意味。
懐かしいグミの味。
 

(無題)

 投稿者:  投稿日:2018年 5月30日(水)18時51分53秒
  ここいいです。
http://kuboakoru.web.fc2.com/zatukann.htm
 

管理人様へ

 投稿者:  投稿日:2018年 5月29日(火)18時20分59秒
  丁寧なご返答ありがとうございます。
こちらの説明がたりなかったようです

>その症状を受け容れる


これはあまりに至難です。
想念観察で得られることで同じ境地に
なるのではないかと感じているのです

こちらに想念観察が詳しく載っています
http://www.geocities.jp/trans_human/21c/21c2/21c20.html

私を含めてここの悩めるひとに光の情報になるような
気がしたので書きました。

私は想念観察は自観法と同じような気がしています。
 

春 様へ

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 5月28日(月)20時07分53秒
  想念観察の意味が分かりませんが、自身が自身に抱いていた疑問が全て氷解した感覚です。或は『漠然とした不安におびえていた自分が、その正体が自分自身であった事が了解出来た瞬間です。』

ですので、不安とか恐怖に怯えていた自分が、その原因(正体)が自分自身の中に存在していた事を了解する体験です。

従って、不安も恐怖も共にきれいさっぱり消えています。不安の原因が瞬間で存在しなくなった感覚です。肩とか身体中が不安のためにカチカチに力が入っていたのですが、その力みが無くなった感覚です。

不安や恐怖に反応して身体中に力を入れて生きてきた生き方が、瞬間的に脱力をする感覚です。身心脱落とか、脱落身心とかを、全身で体感する体験です。

或は死にたくないとか、永遠の命を希求していた自分の中に、もう既に永遠の命が備わっていた事が体感できる体験です。

これ以後すっかりと神経症の症状を考える事が無くなりました。この体験を『完治』と表現しています。

こうなると神経症で苦しんでいた事も、治って楽になった事でさえも、意識に上がる事が無くなっていました。

鈴木大拙博士が言っていたように、二元論を起こしていた内部の者を把握出来たために、二元論で悩む事は無くなっています。生きている時は『生』だけ、死ぬる時は『死』ぬるだけだと思います。

否とか応(否応)などを言う必要そのものが無くなっています。

人間の(人生の)苦しみとは、現状を受け容れる事が出来ない事が悩みとか、苦しみになっています。

何時までこの苦しみが続くかよ言うなら、受け容れるまで続く事を意味します。

神経症の苦しみも同じです、その症状を受け容れるまで続く事を意味しています。


自分の苦しみの理由が分からない事を『無明』と表現するようです。この原因が分かる事を『自分自身を知る』と表現します。無明の闇から解放される事を解脱と表現するようです。

神経症が治る事も、この人生での不安や恐怖が消滅する事も『その原理は同じ事です。』無明に打ち勝つ事がカギを握っています。仏教を極める事も神経症を治す一つの方法でもあるようです。
 

想念観察

 投稿者:  投稿日:2018年 5月28日(月)18時23分7秒
  管理人さんの言われる
悟というと大げさですが、脳梁で、この二つの意識が出会う
というのは想念観察で得られることと
同じような気がするのですが
どうでしょう
 

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