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斎藤は自分の禅体験を書け

 投稿者:無為療法は参考にならない。  投稿日:2018年10月 9日(火)17時45分23秒
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  無為療法 禅の講義は参考にならない。

鈴木大拙「禅仏教入門」から
    空手にして私は行ったのに、鋤がわが手にあった、
    徒歩で行ったのに、しかも牛の背に乗っていた、
    私が橋を渡らんとしたとき、見よ、水は流れず、橋が流れていた。

    これは一般には傅大士の呼び名で知られる善慧の有名な偈(げ)であり、禅の学徒が抱く見解を要領よく示したものといえよう。もとよりこれが、禅の教えのすべてを尽くしているとは決していえないが、しかしこれは、禅の志向する道を生き生きと示していると言わねばならぬ。禅の心理への知的洞察を得んと望む者は、それが可能であるとしての話であるが、 まず、この偈(げ)の真意を理解することから始めねばならない。

これを最初に読むと、禅は余りにも突拍子もない事を言うので、普通の人は鈴木大拙の本を読むことを諦めるに違いない。私も他の部分では大拙の意見を理解したが、特にこの部分はあっけにとられた。
しかし最近レディーガガの痛みが幻の痛みであり、対人恐怖、異性恐怖がガガの痛みと同じで、幻の恐怖ではないかの結論に達した時、はたと大拙の文章が理解できた。

;ガガの痛みが幻の痛みと神経症をごちゃまぜにして語る愚かさ


「 空手にして私は行ったのに、鋤がわが手にあった」と言うが、私は対人恐怖、異性恐怖の治療を48歳の時に完全放棄した。

;完全放棄したっていうなら倉田百三と一緒完全でない


実際何が起きるか興味があったが、その後起きたのは、大体対人恐怖、異性恐怖に興味を失ってしまったのだ。どんな美人の前でも、自然な会話を維持しているだろうが、そんな事はどうでも良くなったのだ。対人緊張場面でも、おそらく同じであろうが、そんな事は親愛なる脳に任せておけばよい事で、興味を失ってしまった。

;そんな事はどうでも良くなったのだといまだに気にしていてるじゃないの。これじゃ完全でないと。

結果において、空手で行ったのに、鋤はわが手にあるばかりか、既に牛の背に乗っていて、見よ、水は流れず(恐怖は到来せず)橋が流れていた(会話が勝手にズンズン進んでいた)。禅のとんでもない 偈(げ)が現実に自分に起きていたのである。


まあ、斎藤妄想劇場開幕ですか、とんでも禅だな。

斎藤氏は何でいつもどっかの本ばかり引っ張ってきて思いっきり妄想で解釈し元の本を捻じ曲げるのか、
少しは自分の禅体験を自立して書いたらどうなんだ。


 
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