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与太郎 様へ

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 3月25日(月)07時46分17秒
  神経症の治りは、症状の受容のみです。また神経症が症状を発症するきっかけは、何でもない事を『本人の好き嫌いする心が大きくなり過ぎてしまって、嫌い過ぎて意識する為です。』

そう言った、分別する心によって、症状を無くしたい心が症状を作り出しています、又固く固定をさせています。森田療法で言う処の不問を守る生活態度が出来上がるなら、症状が襲ったとしても、襲わなくなったとしても不問になっています。

不問とは、症状が出たとしても出なかったとしても『どっちだっても問題にしない』という意味です。
 

ありがとうございます。

 投稿者:管理人様  投稿日:2019年 3月23日(土)17時21分53秒
  それを聞いて少し安心しました。
このまま(不安、苦しいまま)ビクビクしながら通常の生活をしていきたいと思います。
辛いですが飽きるまで?苦しみを味わいたいと思います。
いつの日か気分が落ち着いたらまた御礼の書き込みをさせていただきます。
何度もご教授頂きありがとうございました。
 

HNさんへ

 投稿者:  投稿日:2019年 3月23日(土)10時36分57秒
  不問に対しての考え方は、わたしもあなたと、ほぼほぼ同じですが、あなたと、決定的に違う所があります。
それは、わたしの場合、わたしは、自分が神経症者(苦しみ)を生きているという事自体も不問にして生きている所です。
この生き方は、神経症を生きている人だけに限らず、全ての人を見る時にも当てはまります。
だから、人と、同情で繋がる事がなくなります。
これはつまり、人は、今生きている自分自身、今ここに、既に完璧性がある、という事です。
これを、自分自身に対しても他人に対しても受容する事を、全てを肯定して生きている、といいます。
これが、不問を徹底した生き方。
わたしと犬さんは、ここの認識が一致しています。
掲示板には、ここの認識が一致する相手は、他にはいませんでした。

このような生き方ですと、わたしの場合、神経症者を生きている自分自身も不問にしているわけなので、周りからも、わたしの存在自体を問題視される事がありません。
人は、自分が自分を問題視(意識)しなければ、他人からも問題視されたりはしません。
全ては、自分自身の在り方次第。
今ここで、あなた方からどのように見えていようと、わたしが実際に生きている現実はこのようになっています。
今ここは、あなた方に、語りかける必要があったから語りかけてきただけです。
今は、短時間ではありますが、外に働きにも行っていますし、人間関係は、むしろ、良い方です。
誰にも肩入れした付き合い方をしない為、愚痴を言ってくる人もいません。

他人とつるんで、人の事をああだこうだ言っても、何も進んでいきませんよ。
ここの掲示板には、斎藤さんのことを、ああだこうだと、あなたと思いを分かち合おうとする人がいますが、これは、あなた自身の中の、斎藤さんへの愚痴が未消化な為に引き寄せてしまう縁です。

斎藤さんは、あなたや神経症者に依存してますね。
何かを比較対象に出してしか自分自身を肯定出来ないというのは、その比較対象への依存心があるという事。
あちらの、第二掲示板は、いずれ、がらんどうになりますよ。
これが現実です。
自分しか愛せない人の周りからは、最終的には、人は離れていく。
第二掲示板を好む意識というのは、自分しか愛せない人の意識。
神経症者を生きている人というのは、基本的には、神との和解をしたい人達なので、これはつまり、他人と和解して生きていきたい人達というのと同じ事なので、第二掲示板にリンク出来る神経症者なんて、ほぼほぼいませんから。

わたしは、ある意味、HNさんを心から信頼してきました。
これは本心。
人を思う気持ちには嘘がないから。
ただ、やり方がわかっていないだけだと思っています。

わたしへの返信は無用です。
この場において、お互いの認識を一致させる必要がない。
これをやっていると、お互いの足の引っ張り合いになる。
同意でも否定でも、個人個人、自分の中で自由にしてください。
自分のところから、相手を巣立たせてこそですよ。
愛というのは、自分のところに、いつまでも相手を惹きつけておくものではなく、それぞれの道に進んでこそです。


では、本当に本当に、長い間、ありがとうございました。
 

与太郎 様へ

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 3月23日(土)07時38分1秒
  鈴木診療所に入院治療をしていた時ですが、誰も病人には見えませんでした。症状の事を口にしないでいるなら誰も健常者に見えていました。

中にはひょうきんな人も居ましたので、さながら学校の様でした。心の苦しみは口にしない限り誰にもわかりません。ですので『不問』と云った状態で過ごす事で苦しみは、苦しみとして存在していながら、苦しみにはならずに昇華してゆくと思います。

苦しいと思いながらも『不問の態度を守っていって下さい。』何時しか忘れ果ててしまう時が来ると思います。日常の営みが大事になって、忙しくなって、苦しいとか、苦しくないとかには興味が無くなって行くと思います。

苦しいとかに興味がなくなった事を、治ったと表現しているのかも知れません。

退院する時、先生は『そのまま走り抜けて行きなさい!』と言っていました。
 

苦しみ

 投稿者:与太郎  投稿日:2019年 3月22日(金)12時10分13秒
  最近は仕事もして普通に動けています。
他の人から見れば健康人に見えるでしょうね。
しかし苦しみは解放されていません。
不幸は受け入れるまでとありますが、苦しみはいつまで続くのか。。。
これだけ苦しんでも症状を諦めない自分はなんて頑固なんだとつくづく思います。
まだまだ苦しみが足りないから受け入れられないという考えで合ってますか?
 

宗教は何のために存在してるんでしょうか?

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 3月21日(木)20時39分6秒
  宗教は何のために存在してるんでしょうか?


>>>管理人


必要がない人と必要がない時とがあると思います。そういった人は深い迷いとか、深い悩みとかが余りない場合だと思います。

逆に宗教が必要な人は、本人が気づかない場合であったとしても、深い疑問とか深い悩みを抱えている場合だと思います。

こういった疑問を感じた人がいるかも知れません『自分は何者か?或は人生とは何ぞや?』です。或は死んだ後はどうなるのか?と云った疑問です。

こう云った事柄が頭をかすめたとしても、仕事とか日常の生活に追われた場合では『立ち止まって考え続ける事は無いかも知れません。』

人生が行きずまった時とか、何かうまくゆかない時、或は全てが順調に行っている場合であったとしても『何かおかしい』と違和感を抱く時などもあるかも知れません。こういった時が宗教が必要な時だと思います。

処がこういった疑問とか、悩みとかと宗教の関係性は、結びつかない場合が多いと思います。

もっと別な角度から言うなら、神経症などは全て関係しています、ついでに言うなら過敏性腸症候群や自律神経失調症などの身体とか脳波とかの検査をしても異常なしと出た場合で、本人が異常を訴えている場合等の全てが含まれていると思います。

検査をしても異常なしの場合の『原因は人間の脳の機能の違い』を悩んでいる事を示しています。

始めにその証拠です。人間の脳の機能は二つに分かれていますので科学的な証拠を出したいと思います。

脳卒中のために右脳の自分と左脳の自分と交替している経験を語っている動画を貼っておきたいと思いますので見た事が無い人は見て下さい。


URL:https://youtu.be/ldSoKfFYKqM?t=18
もし出ないようでしたら、ジル.ボルト.テーラ脳卒中と検索して下さい。

禅では、疑問が沸き上がる時、その大元に戻った時その疑門の答えは既に用意されている。と師匠は考えているようです。従って答えを教えるる事は無いようです。

検査をしても異常がない場合で、訴えを引っ込める事が無い場合では、この二つの意識の機能の矛盾を悩んでいる事を意味しています。

心の矛盾を悩む場合が、神経症とか自律神経失調症や過敏性腸症候群を引き起こしているようです。

欝でさえも原因を含んでいるような気さえもしています。その理由は『漠然とした不安』が示しています。二つの意識の機能の矛盾を悩む事がそれらの原因になっていると思えるからです。

宗教の究極の目的とは何か?是は心の安息、或は死によっても覆す事が出来無い幸福感だと思います。

ジル.ボルト.テーラ女史が動画の中で語っていた事だと思います。

何らかの不調を訴えていた者がその不調は不調のままで素手に満ち足りていたと実感する事だと思います。

この意味は、否定感の中で生きて行く事ではなくて、肯定感の中で生きて行く事を意味していると思います。悟とか神と共にいるという意味は、絶対的な肯定を『今現在の幸不幸に限らずに』持てる事を意味します。

人生の救いとは『全てを肯定する中にこそある事』を意味していると思います。

言い替えるなら、『人生に救いなど無かった事を』受け入れる事が出来る事を救われたと表現出来ると思います。

人間の不幸とは今現在を受け容れる事が出来ない状態を言っていると思います。その不幸はその不幸を受け容れるまで続くものだと思います。
 

猫仙人 様へ 余談です

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 3月21日(木)14時47分59秒
  余談になりますが、失楽園という意味は、誰にでも与えられている生理現象を起こしている機能(命の働き)=『識られざる自身の神』を疑う事(恐れる事)を意味しています。

失楽園の意味を追求してゆくと神経症とか自律神経失調症に辿り着くと思います。

共に自身の生理現象について、恐れたり、疑うという意味になるからです。
 

猫仙人 様へ

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 3月21日(木)14時40分16秒
  『 対人恐怖神経症治っても上司が来れば緊張するし異性が来れば赤面もしますよね。 無意識の

不安に反対せず正々堂々緊張して後腐れなければこれで治ったとして良いでしょうか?  』



と質問をされていますが、神経症が治っても症状は無くなる事はありません。

神経症の症状とは『人間の自然の生理現象』に付いての過剰反応でしかありません。従って症状がきつくてしんどいと言って、薬に頼っている事は、生理現象の影響を少なくしようとしているに過ぎない事を意味しています。

神経症が治ったとしても、高所恐怖症の人が高い所にいる場合では『低い』と感じる事はありません。高い所は高いと感じます。

異性恐怖症の人が治った場合でも同じです、相手に異性を感じます。そうして心も身体も反応をします。良い関係の時にはワクワクしたりときめいたりですが、悪い関係の時には嫉妬をしたり嫌ったりになります。

人間が元々持っている、感情的な生理現象とか肉体的な生理現象に違和感を抱く現象が神経症が発症するきっかけになっています。


『 対人恐怖神経症治っても上司が来れば緊張するし異性が来れば赤面もしますよね。
無意識の不安に反対せず正々堂々緊張して後腐れなければこれで治ったとして良いでしょうか?  』は元々の自身の本来性を取り戻した事を意味します。

是が神経症の再発と恐れる事はありません。誰でもが感じている事柄を『誰でもが感じている事』と理解出来た時が神経症の完治という事になります。
 

p2v 様へ

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 3月21日(木)14時19分59秒
  斎藤氏は神経症の医学的な定義を知らない  に付いての感想は全く同感です。

彼には、常識は通用しないようです。彼の常識と世間の常識には相当なずれが存在している様です。

でもこう云った事を追及しても、何も変わらないと思います。彼は彼なりに『神経症者』にアピールをして行けばよいと思います、

結果的に神経症から解放される人が多くなったら良いと思います。

彼の間違いを追及したところで、神経症の人が治る事にはつながらないと感じるようになりました、他人の悪口を云っているだけ自分の気持ちが貧しくなる方が馬鹿げていると思う様になりました。

断固として追及する場面が来るならその時は別だとは思っています。
 

猫仙人様へ

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 3月21日(木)14時10分17秒
  無意識の神と外部の神達の違い   或は >この無意識の自分とは、仏教で言う処の仏性を意味しています。又

キリスト教>に於いては神に当たります。とありますが、アマテラス大神以下八百万神、ヤハウェー以下大天
使神霊達が外部に実在しますが、これらの神達と管理人さんの仰る無意識の神仏は別物で

すか?同一でしょうか?


という事ですが、私の見解は、『別物ですが、同時に同一です。』  と感じます。私達の死後はもう一度、又、元居た処に帰って行くと思います。と同時に今現在も、情報が行き交っている状態とも感じているからです。

誰も明確には、死の世界からの生還者の情報に接する事は出来ませんが、臨死体験の経験者から学ぶ事は出来るかも知れません。

或は、『 エドガー・ケイシー(Edgar Cayce: 1877年~1945年)』のような人からは学ぶ事が在るかも知れません。
 

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