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自律神経失調症て いったい なんなの?

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月28日(日)05時23分7秒
  自律神経失調症て いったい なんなの?


>>>管理人


人間には自動運転が既に完成されているものが在ります、身体の生命維持機能という観点から言うなら、ホルモンの調節とか血流の調節とか呼吸器の調節とか交感神経とか副交感神経とか、生命維持に関する機能全てです。

こういった機能と人間としての意識『我=自意識』が一体となって機能している場合を健常者と言っていると思います。つまり自身の身体の生命維持機能に付いて一切の違和感を持たない場合を言っています。

処が自身の生命維持機能が自動運転になっている事に付いて、疑いを差しはさむ場合があります、自分の意志或は意識の力によって、自身の生命の維持装置を働かせている者と取って代わろうとする場合です。

この場合で『自律神経』を内部から司っている者に疑いを持って自分の意志とか自意識で自律神経を司とろうとしている場合に『自律神経は自動運転が出来なくなってしまいます。』この場合を自律神経失調症と言っています。

こういった人間の生命維持機能の中の自動運転の中で、過度の意識を腸とか消化器に向けて自身の持っている自動運転機能を阻害する場合を『難治性の腸症候群』と呼んでいるようです。

どちらの場合でも如何なる精密検査をしても異常が見つけられないでいる様です、何故なら身体機能の異常ではないからだと思います。原因は『意志或は自意識』の力で、自身の身体の生命維持機能に疑いを持つ事によって、自動運転が出来難い様になっているからだと思います。

自身の内部観察が過度になってしまって、健常者と違うと言われる現象が他にもあと二つ程あると思います。どちらの場合も『自身の自動運転者を疑う場合です。』

他の自動運転者とは、行動を通じての生命維持機能を働かせている者と、心とか精神活動を通じて生命維持機能を働かせている者と言ったら良いと思います。ですがこう云う風に三つの機能に分けて考える事は便宜上であって、実際の人間としての生命維持機能とはこの三者が一体となって働いていますのでお互いにかぶっている症状に苦しむという場合もあるようです。

行動を通じての自動運転者を疑う場合を”神経症”。心や精神を通じての自動運転者を疑う場合を”心を病むとか精神を病む”と表現しているようですが、共に自律神経失調症とも被っている部分があるようです。

この被っている部分とは『違和感とか、罪悪感に代表されるような、何処から押し寄せているのか訳の分からない漠然とした不安感、或は圧迫感』だと思います。

病名も症状も全く違っていながら、発症の仕方も治る工程も、或は治らない工程も、同じくしていると思います。治る場合のキーワードは『自分を忘れる=没我=無我』だと思います。

或は治らないキーワードは『我を張る=我が出る』

治るキーワードは『我を捨てる=欲を捨てよ』だと思います。言葉を替えて表現するなら『欲しがらないで手に入れよ!』になると思います。

自分自身を、或は人間を、或は人生を学んで、達観出来る時、多少は分かるのかも知れません。

補足として書いて置きたいと思いますが『漠然とした不安感』とは、外部から押し寄せている訳ではなくて自分自身からの信号です、それも『自動運転者』からのものです、その自動運転者は自分の心の中に存在しています、それも無意識の中に封印された形でです。

その意味するところは『交代要請です。』或は救いの手が差し伸べられているという意味ですが、分かるまでは嫌なものと勘違いしているようです。
 

再掲-意識しないと呼吸ができないことがあり苦しいです

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月28日(日)03時57分44秒
  意識しないと呼吸ができないことがあり苦しいです。息をしっかりはけるようになる良い方法があったら教えてください。

以前から不整脈(心室性期外収縮 頻発 日常生活に問題ないと診断)があり、1年くらい前から、不整脈が起こるたびに息苦しさ、胸の苦しさを感じていました。また、動悸を感じるようになり、呼吸も意識しないとできないような感じ(呼吸のしかたがわからない)がありました。

今はだいぶ改善され緊張感や動悸も少なくなって入るものの、呼吸が浅いせいか苦しさは残っています。
例えば
①話をしているときに息を止めているような状況になっている。(吸ったまま息があまり出ていないような気がします。)そのため、話をしていて苦しくなる。
②落ち着いた状態で腹式呼吸をしても長く息をはけない。(鼻呼吸の場合も口呼吸の場合も、長く息をはいていられません)
③まずは息をはききることが重要とはわかっていても、息をはく段階ですぐに苦しくなります。(もともと吸った息が少なく全部息をはききれているのか、それともどこかに残ったままなのかもわかりません)

水泳やランニングをしていたので心肺機能が特に弱いわけではないと思います。

どのようにしたら、呼吸がうまくできるでしょうか。特に息をはくために、アドバイスお願いします。


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>>>管理人

2011/4/1820:28:57



本当は貴方の身体に『息をする事を任せた方が正解です。』人間は『自我意識』が身体と心を支配しようとする事で『異常を感じてしまう場合があります。』

神経症などは良い例です。自分の心、或は自分の意識が字を書こうとする場合がありますが、この場合には両手で字を書こうとしても字が書けなくなる場合があります。

話をする場合でも『自我意識』が言葉を喋ろうとした場合、『口が自由に動かない場合があります。』この事を吃音と言います。

眠る事一つ、とっても『自我意識のみで』眠ろうと頑張る場合があります。自我意識のみで頑張る場合、頑張れば頑張るほど『眠りからは遠ざかる場合があります』この場合を不眠症と言っています。

不眠症を治す場合、眠る事にこだわらなくなると治ります。『眠れなくともいいや』という心境になった場合には、ぐっすりと眠る事が出来ます。

字が書けなくなった場合にもいえます。『自我意識が』字を書くことを放棄した場合、以前のように自由に字が書けるようになります。

吃音の場合も同じです。『自分の意思の力ではもう無理』と分かった時から、『自分の口は自由に話が出来るようになります』

この意味するところは、人間の身体も心も『自我意識のみの生活では』成り立たない事を意味します。では自我意識が出ない時とは何時の事か?を書いてみます。

結論から言うならば『自我意識が出ていない時』です。是はメンタル面の強化と云う事を説明すると分かりやすいと思います。

ここ一番という時の事です。人が大勢見ていたり、優勝が掛かった『心のプレッシャーが掛かった時』の事ですが、『自我意識が出ない訓練をする事を意味します。』

自我意識が出ない状態とは、『無意識の自分に任せた状態』です。言葉を替えるなら、『我を忘れた状態です』それは、貴方の場合なら『息をすることを忘れた状態です』

吃音の人なら『話しをする事を忘れた状態』です。字が書けなくなった人の場合なら、『字を書くことを忘れた状態』です。

眠れなくなった場合には『眠る事を忘れた状態』と云う事になります。

人間の心は自我意識の他にもう一つの要素が在る事を意味します、それは『無意識の自分』と云う事になります。

貴方の場合は『無意識の貴方』と仲違いしている、或は共同歩調が出来難くなった状態を意味します。

貴方が治ったときの事を書いてみます。貴方には『息をする』と云う事が意識出来なくなっています。それは意識して息をしなくなったからです。その事から『不安がなくなっています』

それは『意識しないと呼吸ができないことがあり苦しいです。』と云う事を受け入れたことによります。

神経症などで『症状』となっている事柄は、『自分の分別意識が受け入れられない事』が意識に上がっている事を意味します。

神経症になる事自体が、『深い人間性の現れ』と表現出来ます。何故ならば『他の人が気付かない事に気が付いた』という意味が在るからです。

心の矛盾を『違和感として抱いてしまう事が』神経質という意味になっています。不安になり易いと云う事は自分の心に、他の人が気付かない何かを見つけたという意味が在るからです。

神経症を学ぶ事が有効と思います。吃音でも不眠症でもその原理が分かる時、自分の秘密も分かります。禅などもその気付きの為には有効かもしれません。

神経症を学ぶばら鈴木知準先生の本をお勧めします。禅を学ぶなら鈴木大拙博士のものが良いと思います。

この御二方のお陰で神経症が完治した経験が在ります。



質問した人からのコメント

2011/4/21 01:08:59


降参 大変詳しくありがとうございました。お勧めの本、とても興味深いです。読んでみようと思います。
 

再掲 面壁九年の末、悟りを開いたという少林寺の開祖・達磨大師とお釈迦様が悟りを開いた

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月27日(土)07時26分20秒
  面壁九年の末、悟りを開いたという少林寺の開祖・達磨大師とお釈迦様が悟りを開いたというのは同質のものですか?それとも異質ですか?
達磨は仏陀にはなれてないのですか??


閲覧数:1,983


>>>管理人     2011/6/1521:52:17

誰でも悟りを開く可能性を秘めています。ですが心や身体が本当に健康な場合『もう既に開いている事を意味しますので、新たに悟りを開き難いと思います』

悟りを開くための条件は『心に違和感や悩むや苦しみや深い疑問』を抱えていた方が達しやすいと思います。

その訳はお釈迦の言っていた『一切皆苦』の中に在ると感じます。一切皆苦という意味は、『心が苦しい状態』を指しているからです。もっと言うならば『意識地獄』を想像して頂いた場合、判ると思います。

現実には存在しない不安を抱えている状態です。それは現実にはない架空の世界を頭の中に『自分で作っている事を意味します。』

現代にもそういう架空の世界で苦しんでいる人達は沢山存在しています医師の元に通っている人の中にも沢山存在しています。

例を挙げるなら、『身体』が悪いといって診察を受けた場合『何処にも異常が無い事が分る人』の中で心配をして、今度は精密検査をしてもらう場合ですが。ここでも異常が見つけられない場合でも、その心配から離れられなくなる場合です。

何処にも異常が無い場合、心の中で、体の健康に違和感や疑いを抱いて、体の異常を感じています。この場合自律神経失調症と診断されます。

『自分の行動に疑問や疑いを抱いて』自分が行動出来なくなって、医師の元へゆく場合があります。神経症の場合ですが、この場合にも精密検査をしても、体にも心にも異常は見つけられませんが、本人のみが『違和感』を主張しています、そうしてその主張する事がその『病名と』診断されています。

自分の心の健康に疑いを抱いたり、違和感を訴えて行動できなくなる場合があります。この場合にも脳の検査をした場合、異常は見つかりません。目に見えないものをストレスと感じて、そのストレスにさらされていると解釈できますが、本人の頭の中でその不安は作られているとも解釈できます。

いずれの場合も、本人は検査をしても異常が無いにも拘らず、『異常な感覚や違和感や不安を抱えています』

この不安を『一切皆苦』と言っていたと思います。今上げた現象は、実は何処(身体も脳)も異常はない事を医師は知っています。本人達がその異常な感覚から抜けられなくなっています。その感覚から抜ける事を医師に懇願して『薬』が処方されています。

ですがその感覚こそ『一切皆苦』と云う事を意味します。その状態は症状こそ違ったり、その訴える事の詳細は違いますが、『意識地獄』を醸し出しているからです。

今書いた病名が違う病気と判断されているものには共通点があります、『心を圧迫される感覚、生き難い想い』です。或は漠然とした不安と言うものも共通項となっています。或は罪悪感と言う言い方をする人も居るかも知れません。

この状態を『一切皆苦』と感じてお釈迦様は出家したと想像出来ます。この状態は『自分自身の心に矛盾を感じている事』を意味します。何故なら『絶えず自分自身の心に争いが絶えない、或は心が騒がしい状態』となっています。

この生き難い想いからの開放を『悟り』と言います。人間には『自我意識と共に働いているものが存在しています』言葉に表すなら『無意識の時の自分』です。心の矛盾とは『意識する自分』VS『無意識の時の自分』が協調し難くなっているからです。

無意識の自分は、命そのものまでも働かせています。心臓や肺やホルモンや、胃や腸など全てを働かせています。自我意識に対しては『腹が減った事や喉が渇いた事など全ての事柄を脳梁を介して送っています。』

高い所にいる場合に感じる『あの感覚』はその者からの情報を受け取ったためです。スピードを出し過ぎた場合にも教えています。人に会った印象も教えています、言い換えるなら人間が五官から入る情報は、その者からの情報を元にしています。

ですが人間が『自身に湧き上がる感情』に好き嫌いを言って、受け取りを拒否する場合があります。その好き嫌いを言って『受け取らない事が』違和感や恐怖症の原因となっています。

高い所の情報の場合を高所恐怖症、人に会った時の情報の場合が対人恐怖症、と言う意味になります。湧き上がる只の小さな不安と言う情報を受け取ろうとしない場合、高所恐怖症と同じで、小さな不安が拡大されて恐怖症になっています。それが不安恐怖症と云う事になります。

その拡大された大きな不安をさらに拒否した場合が『パニック障害』と言う舞台裏です。

その湧き上がる感情が湧き上がる情報の『送り手と、意識の根底で出会う事を=見性』と言っています。

今までの不安が、その根底から氷解してゆく事を意味します。『今までは不安に包まれていて、身体中に力がはいっていいました。肩にも首筋にも、いつも力を入れて生きてきました。

自身の働きとの出会いの瞬間に、体中の力が抜け落ちます、それが『心身脱落、脱落心身』と言う現象です。

それ以後生きる事に力が要らなくなります。自然と力が入っているからです。心が争う事がなくなります、心は静寂を保ち続けています。死ぬ事にも、生きてゆく事にも不安がなくなっています。その心境を『生死の問題が解決した』=『涅槃』と呼んでいます。

誰でも、意識の根底で毎日その者と出会って交替制を守っています。その心境を語る言葉です『今更お前は誰かと聞く必要など無かった』誰も本当は知っています。

今書いた障害を持つ場合自分の働きに出会う『見性』をした場合、寛解を通り越して『完治』した事を意味します。
 

再掲 心理学に詳しい人に質問なんですが、メンタル

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月26日(金)22時31分24秒
  2011/10/221:14:29
.

心理学に詳しい人に質問なんですが、メンタルの強い弱い人の根本的に違う所って何ですか?ぜひ教えて下さい!!



>>>管理人



2011/10/320:55:12

人間の脳の機能から説明すると分かり易いと思いますので、簡単にその記事載せてみます。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”

メンタル面が強いと言う場合「自我意識がでしゃばらないように出来た場合」です。言葉を替えて言うなら「無意識の自分のままでいられる場合」です。

メンタル面が弱いと言う場合「自我意識のみで」行動したり考えている場合です。自我意識のみでの行動を、主に「神経症」と分けてあると思います。

自我意識のみで身体の心配をする事を「自律神経失調症」と言う理解で良いと思います。


自我意識のみで「心のあり方」の心配をするとき「心を病む」と解釈出来ます。

意識と無意識は交替制を守りながら「健常者」と言う人達は成り立っています。その交替制に疑問を持ったり、疑う場合に先に書いた症状や病気と言う状態になります。

聖書の中で神に疑いを持つ事、或は知恵が付くという事が天国からの追放に当たるという事を意味しています。無意識の自分が『神』に相当します。赤子の様に嬰児の様に心が一つの者として働く事が天国に相当します。

この状態とは『自分が無くなった状態の事です。=没我、或は無我という状態を指しています。』
 

頭と顔の不快なヒリヒリ感しびれに悩んでいます

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月26日(金)22時10分40秒
  2010/8/2322:57:54


頭と顔の不快なヒリヒリ感しびれに悩んでいます。
でも明らかに精神的なものなので頭痛薬など飲んでも効きません。

何故精神的なものと断定出来るかというと頭や顔がヒリヒリすると頭に浮かんだだけでヒリヒリとしびれ出すからです。

意識すればするほど催眠術にかかったみたいにどんどん痺れが酷くなって何も手につかなくなるくらい苦痛です。

寝る前と起きた時が特に酷いです。
ここ何年も心からリラクックス出来ていません。

どうしたら軽減できますか?


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>>>管理人




人間の心理を学ぶ事が良いと思います。貴方とは違う障害を持った人の事を学ぶのです。そうしてその深層心理には共通点がある事を学ぶ事です。そのためのヒントを書いてみます。

始めに神経症の幾つかの症状を並べて見ます、全てに共通する点を見つけてください。

書けいと云うものがあります、症状は、書こうとした時に、手が自分の自由に動かなくなる症状です。自由にならない事から、今度は両手で字を書こうとしますが、ますます、自由が利かなくなるという現象です。

吃音と云うものがあります、話をする時に、噛んでしまう事です、ままなくともいいます、うまく口が動かなくなる症状です。同じ言葉しか出なくなって、次の言葉が(頭では分っているのにも拘らず)口をついて出てこなくなる現象です。うまく話そうとすればするほどうまく行かなくなります。

対人恐怖症と云うものがあります。人に会う時の、微妙な感じを、嫌いになって人に会えないと思ってしまう現象です。或いは人に会ったら、よい印象で接しようとして、返って変になっていると思い込んで、人に会えないと思い込んでしまう事です。

上がり症と云うものがあります、上がった経験、となって、上がる事に、不安を抱えてしまって、上がらない工夫をして、うまくゆかなくて、返って上がってしまう現象です。

まだまだ、数え上げたなら、数限り無いほどの症状が在ります。

今書いた、異なった症状を、今の精神科医達や、心療内科の医師達は、それぞれの症状別に、違う原因で起きている症状として分類をして、違う処方をして、違う療法を薦めていますが、分類を分けること自体が大いなる誤りです。何故ならば、原因は全く同じところに有るからです。

精神的なものは、個人個人が、自分でけりをつけてゆかない限りは、本当の解決は難しい面があります。貴方の場合には貴方なりの解決を『自分で見つける』と云う次元です。自分の安心を他人任せにしたところで、又人に頼らなければ』ならくなってしまうからです。

今書いた症状に共通した事のヒントを書いて見ますので、自分で学んで下さい。そのヒントとは『意識する事』です。この意識する事が分るなら、鬱にも対応できますし、自律神経失調症にも対応できます。その他心身症と云うものもわかります。

全ての症状に共通する事とは『意識する事』或いは『意識すると処』に在ります。貴方の場合で云うならば、意識した処が『頭と顔の不快なヒリヒリ感しびれ』という事になります。

他の話で説明するなら、『息がし難い』と意識した場合に、過呼吸と云う事です。息がしずらいと、意識をした状態でいた場合には、本当に息が出来難くなります。字を書こうとして書けなくなる場合と同じです。

そういう意味で『人間の心理を学ぶ事』をお勧めしています。人間が『自我意識単独で』やろうとした場合には、返って出来なくなる場合があるという事を学ぶ事が大事になります。

今の貴方の場合は、自分の体と心ですが、自分の体と心の関係でも、はっきりと分かるなら、人生に付いてもわかる様になります。それは『欲しがらないで手に入れる』という事です。お金でも地位でも名誉でも、欲しがっている間は手に出来ない原理が人生には働いている事です。

自分の口でさえも、自分の好きに働かそうとした場合には、自分の自由にはならないかも知れないと云う、現実があります。そうして異性に対して、あの人と仲良くなろうと意識した場合には、遠くに行って、去ってしまうと云う現象になってしまいます。欲しがらないで手にするための原理原則を、学ぶ事と、自分自身の体や、心を自由自在に働かせると云う事にも、全てに共通しています。

答えを書いてみますが、分るまでに相当時間が掛かるかも知れません。それは『捨てる事を学ぶ』という事です。

「寝る前と起きた時が特に酷いです。ここ何年も心からリラクックス出来ていません。どうしたら軽減できますか? 」

と云う答えは、『安心する心を捨てる』という事です。是はジレンマの解決です。言い方を替えるなら『心の矛盾の解消です』

貴方が意識する事は『安心出来ていない』と云う不安感です。或いは安心したいと云う意識です。その意識が出てしまって返って貴方の不安感を呼び寄せています。

『どうしたら軽減できますか? 』と云う答えは、安心したいという心を捨てる事です。貴方の安心したいと云う心が『安心できない』不安を呼び寄せています。貴方が安心も不安も捨てた時(忘れた時)貴方は安心に包まれています。

その時とは、貴方が我を忘れて、何かに打ち込んでいる時の事です。




質問した人からのコメント

2010/8/24 06:15:18


逆の発想ですね!
分かりやすく大変為になりました。
混乱しそうになったらまたこの回答を読み返したいと思います。
有難うございました!

 

人生に疲れました。

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月24日(水)22時13分8秒
  2010/9/2521:45:20


人生に疲れました。

どうしたらいいですか?



>>>管理人


貴方は人生に疲れたくないと云う幻想を追っています。誰でも疲れたり癒されたりしながら、人生は前に進んでいます。今の貴方には『疲れた』と云う意識の虜になっているだけです。

という事は『疲れていない自分を』知っているから、疲れたことも知っています。

疲れていない時の自分を忘れただけと言えます。自分の心の状態を見失っているいるだけです。

思い出してください、その時の貴方とは『自分の心の状態に関心を持っていない、或いは自分の心の状態を観察していない』だけです。

心の在り方そのものを追求していなかっただけです。心を病むという事は『自分の心を正常にしよう』としている事です。

心を正常にしようと云う『意識』が、正常にさせなくなっています。正常かどうかさえも忘れた時『本当は、心は正常になっています』

子供の時を思い出してください、歩く事を想像してください。人間の意識は時によって『障害になってしまいます』

野原を独りで歩く事を想像してください、自由にのびのびと歩く事を想像してください。人間の自由とは『意識していない時の事です』つまり歩く事に意識が使われていない時に、自由に歩く事が出来ます。

他人が注目する所で歩く時には、自我意識が出て自由には歩く事さえ出来ません。意識する事と、意識しないですることの違いを学んで下さい。

意識して考える事と、意識しないで考える事の差が、分らなくなっているだけです。質問があったら受けますので聞いて下さい。
 

再掲-『飽きる人』と『飽きない人』の心理を教えて

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月24日(水)22時05分8秒
  2010/12/1409:26:49

『飽きる人』と『飽きない人』の心理を教えて下さい

閲覧数:2,574



>>>管理人


2010/12/1506:00:03



『飽きる人』は物事を自分の事とは切り離して、他の事として関心を持たない興味の範囲が狭い人、或いは自分の事としても余り物事に対して関心が無い人かも知れません。

『飽きない人』は物事に対して常に興味があり、物事に対しての遊び心、或いは冒険心が豊富なのかも知れません。次から次へと湧き上がる興味の虜となって止められなくなる様なところが在ると思います。



 

管理人さんへ

 投稿者:斎藤  投稿日:2018年 1月24日(水)10時34分31秒
  本当なら苦労しないのですよ。医者が患者からそれを聞いた場合、
そうですかと返事するだけです。何れ分かる時が来るでしょう。
 

信用するにはあまりにも良すぎる

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月24日(水)07時36分30秒
  斎藤さんへ

『ある日本屋で、本を見て、その瞬間に治った。』という文章を見た事が在ります。私から見たり貴方から見ても『信用するにはあまりにも良すぎる 』と思いませんか。
 

信用するにはあまりにも良すぎる

 投稿者:斎藤  投稿日:2018年 1月23日(火)20時03分8秒
  「もうかなり昔になります、今69歳ですので42年前に鈴木知準先生のお世話になった事があります。講和という時間があって、----------------当時の症状名は『死に対する恐怖症』ですが、このために生きた心地がしなくなって『離人感』で苦しんだ事、生き難い想いがまるで嘘のように思われます。毎日を安楽に過ごせています」


どうもこの話は出来過ぎていて信用出来ない。こんな緩解の例は過去20年見たことありません。
私の経験によると、神経症を治すにはどうしても体の動きを必要とします。
体の動きなしに、単に悟りだけで治ったは、信用するにはあまりにも話が出来過ぎています。
 

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