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神経症の治し方についてです

 投稿者:管理人  投稿日:2017年11月12日(日)15時22分34秒
  神経症の治し方についてです

神経症が治る方法の一つに「何もしない」「無視する」といったことがあると聞きました
その中で疑問に思ったことなんですけど、やはり「何もしない」って思っていても苦しくなるときがありますよね?その時ってひたすら我慢するのですか?
知っている方がいたらご意見よろしくお願いします


>>>管理人


神経症が治った経験を持っています。神経症の症状は様々ありますが、どんなに違う症状だとしても、神経症になる原因も、治るといった内容もすべてに通じています。

初めに神経症が治った姿を書いてみます、治った姿は『症状があっても無くとも、どっちだっても良いや』となった時です。その時になったなら、症状があっても無くともどちらでも構わなくなっていますので、症状があったとしても、それはもはや症状になり得なくなっています。

神経症の症状とは、『自分が嫌だと思っていて、自分が受け取りを拒否している事柄』の事です。心に湧き上がる事柄の事ですが、受け取りを拒否した瞬間から『意識上に上げて問題にして、心から追い出しを図り続けている事柄が症状に当たります。』

ですので、神経症が治る方法の一つに「何もしない」「無視する」といったことがあると聞きました
その中で疑問に思ったことなんですけど、やはり「何もしない」って思っていても苦しくなるときがありますよね?その時ってひたすら我慢するのですか?

という質問ですが、治った姿が『症状を相手にしない事』です、言い替えるなら症状があっても無くともどっちだってもかまわない時です。もっと分かり易く言うなら『症状を嫌う事が無くなって、受け容れてしまう時』の事です。

ですので、神経症が治る方法の一つに「何もしない」「無視する」という意味は、意識上に上げて問題にしないという意味です。

この意味は、神経症を治すには『症状を治そうとする事が無くなる事』を意味します。症状を良いとか悪いとかを言う事をなくする、という意味です。


神経症そのものに対して「何もしない」「無視する」という事を意味しますので症状があっても無くとも、どっちでも構わないという意味とは「神経症そのものでさえも治そうとしない事」を意味します。

森田療法の神髄は『症状があっても無くともどっちも不問として、症状を口にしない生活』を意味します。症状に対して相手にしない態度が出来た時例え症状が有ったとしても、それはもはや症状ではないものに変化していますので。意識上に上げて問題にする事はなくなっています。

此処まで来たなら『症状は自分が作り上げただけの幻』だと分かります。此処まで来たなら症状は現実には存在していない『頭の中に作り出した妄想』と分かります。

これが神経症の完治です。 逆説的な言い方ですが、神経症とは症状を治す事を放棄した場合を治ったと表現する事になります。

 

死ぬことが怖いです。高3です。 長文、乱文失

 投稿者:管理人  投稿日:2017年11月12日(日)11時10分26秒
  死ぬことが怖いです。高3です。
長文、乱文失礼します。

1週間ちょっと前、薄暗い道を1人で歩いている時、ふと死ぬのが怖いと思いました。
ドキドキして、悲鳴をあげそうなくらい怖かったです。そこから、死ぬのが怖い

、でも永遠に生きるのも怖い、誰も死んでほしくない、など色々と考えてしまいます。死んだ後意識がなくなり無になることが何よりも怖いんだと思います。(自分のことでもここはよく分かりません…)

ネットで色々調べた結果、タナトフォビアという症状かも知れないとも思いました。そこに「話すと楽になる」と書いてあったので友達数人に何気なく「怖くない?」と聞いたり「自分は怖い」と言ったりして、少し楽になったような気もしたのですが、やっぱり怖いと思ってしまいます。
ネットでも怖いと思っている人がたくさんいる事を知ってやはり少し楽になりましたが完全に怖いという感情はなくなりませんでした。

また、過去のトラウマも原因の一つと書かれていたので思い返してみたところ
・大好きだった祖母が小学生の頃亡くなった
・お正月に親戚で集まるたびに「来年はいないから」と冗談を言っていた曾祖母が本当に亡くなった
ことがトラウマなのかなと思います。特に大好きだった祖母が亡くなった時は初めて「人の死」というものを意識して悲しくなった出来事でした。
小さい頃から地獄など死後の世界に恐怖を抱いていた自覚もあります。


そして同じく小さい頃からふとした時に怖いとは思っていました。しかし、ここ半年くらいは社会科目(倫理や歴史)の授業で色々な思想や歴史的出来事を習っている時に「あぁ、やっぱり人って死ぬんだ」と怖くなり、こんなに長期間怖いのは初めてなので自分がおかしくなったのではと不安にもなります。


怖くて受験勉強に専念できなくなり、大好きなはずの日本史も「皆死んでるのか」と思うととても手がつけられません。受験のストレスも相まってか塾でも家でも泣いてしまい、自分が情けないです。親には「受験のストレス」で泣いてしまったと言いましたが、相談した方が気持ちが楽になるのでしょうか。

まとまりませんが、たくさんの意見や考え方を聞きたいです。


>>>管理人


死に対する恐怖症、になったといったところだと思います。私の場合も貴方と同じことで大変苦しい想いで生きていた経験があります。私の場合では中学二年の時の
事でした。

結論から先に書きますが、私の経験を書いたところで貴方には何の効果も得られないと思いますが、知っているか知らないでいるかでは、雲泥の差があるかも知れないと思って今筆を取っている次第です。

解決の仕方は、貴方が人間通になった時点で解消する問題だと思います。つまり自分は何者か?といった問題の解決と同じという意味になります。

こう言った問題?に関しての説明は二通りの説明の仕方があると思います。

一つ目は心理学的、或は科学的な説明だと思います。只言える事はこの事を理解したところで、今の貴方の解決には何にも役に立つことはないかも知れませんが、長い目で見た場合では、必ず役に立っていると思います。

二つ目は、人間学的?或は宗教的な観点からの説明になります。この見方からの本質が分かる時、貴方の死に対する恐怖心は粉微塵となって消えて無くなると思います。この苦しみが無くなり、すっかり心が乱される事が無くなった世界観を仏教では『涅槃寂静』と呼んでいるようです。キリスト教では天国に相当するのかも知れません。

では一つ目の『心理学的、或は科学的』に人間の苦しみを説明したいと思います。これは人間の脳の機能に関係していますので、今の脳科学で証明された人間の脳の
機能を紹介します。ウイキぺデアからです。


『スペリーの実験以前には、いくつかの研究結果から大脳の大部分は分化しておらず、代替可能と考えられていた(例:ラシュレーの等能説、量作用説)。彼は初期の実験でこれが誤りであること、すなわち発達期を過ぎると脳の神経回路がほぼ固定化することを示した。

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球がそれぞれ独立した意識を持っていることを実証した。この研究は、左右の大脳半球の機能分化の理解に大きく寄与した。しかし、スペリーが明らかにした事実は、歪曲されたり拡大解釈されたりして世間に流布した。

1981年ノーベル生理学・医学賞』

その後の研究は余りなされていないようですが、この研究の成果はあくまでも「脳梁が切断された脳」の機能という事です。この機能の違いが何故心理学的、或は科学的な説明になるのかは以下の通りです。

聖書では天国に一番近い存在は「幼子」としていますが、仏教でも同様です、仏教の場合では「嬰児」としています。この全く違う宗教なのに結論が同じなのは何故か?ここがミソになっています。

結論を書くなら『脳が未発達』だからです。言い替えるなら脳の機能が未分化だからです。もっと言うなら、右脳も左脳も一つの者として働いているからです。

思春期頃に脳の機能分化は完成に近くなると言われていますが、この頃から人間には、疑問や悩みが生まれ始めます。これはスペリー博士が言う様に、『二つの脳半球がそれぞれ独立した意識を持っていることを実証した。』という様に『対立する二つの人格』として作用し始めるからだと推察出来ます。

つまり見ている自分VS見られている自分が存在するようになるといった意味です。失敗した場合では心の中に「お前は馬鹿だ!」ともう一つの声が囁く様になるといった意味です。

或は裸でいても平気だった子供の頃と違って、ある年齢頃から「恥ずかしい」と言った感情が湧くようになります。劣等感とか優越感も持ち始めます。なにかと対比する対象が多くなります。生と死の対比も同様です。


二つ目の、人間学的?或は宗教的な観点からの説明という事をしたいと思います。

仏教などの創始者は全ての人が、強い不安を抱く事や、強い疑問を抱く事から始まっているようです。

お在釈迦様は、一切皆苦という様に、なぜ人間は苦しまなければいけないのか?道元は、人間は元もと悟っているというのに、なぜ修業が必要なのか?といった疑問からこういった道に入ったと言われています。

お釈迦様の『一切皆苦』の言葉の裏には、精神疾患の趣があると思います。つまりノイローゼの状態だと思います。健常者の場合では『明けない夜はない、とか出口のないトンネルはない。』という様に、否定と肯定が混じっています。


精神疾患の特徴は『一切皆苦』という様に否定に次ぐ否定が支配しています。これは心理学的に言うなら、意識地獄を意味しています。思っている事に心が支配されてしまってここから離れる事が出来ない状態を示しています。

心の停滞が全ての原因になっています。死に対する恐怖症と言う場合では『死を意識していない場合』では全くの正常です。

今の時代は死ぬ事を要求された侍階級の存在はありません。当時の侍達も、死におそれおののいていたようですが、その時代的な要求から『禅』が侍階級に浸透していって、死を恐れる事なく戦闘現場に赴く事が出来るようになっていったようです。

貴方へのアドバイスとしては、禅を学ぶ事が良いと思います。それには「鈴木大拙博士の著作集」を読む事をお勧めします。博士は若くして見性(自分の性を徹見する事=悟りを開く事)をしていますので、著作集の中での言葉には無駄な事が無くて、しかも親切丁寧な語り口になっていると思います。

貴方の恐怖症が完全解決する時には、人間の中には永遠の命が授かっている事を理解します。今の貴方は『その永遠を理解している者の助けを振り払っている状態』に過ぎないからです。

人間は誰も『永遠からやって来て、また元の永遠に帰って行くだけ』と言った理解が出来た時貴方の恐怖症は根本から解消します。気長に学んでみて下さい。


 

宇佐療法ブログ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年11月 6日(月)07時44分36秒
  宇佐療法ブログというものがあります、此処はいつも、神経症などの治療の肝が掛かれていると思います。

参考のためにアドレスを載せておきたいと思います。


宇佐療法のブログ

http://miroku18.blog.fc2.com/blog-entry-220.html#comment1147
 

実感。

 投稿者:自然Yukiko  投稿日:2017年10月15日(日)00時02分53秒
  休日に久しぶりにゆっくりと家の掃除が出来ました。
拭き掃除しながらフッといただいている「命」を味わいました。
身体を動かして、これが働くということなのかと。
そして一年前の私の質問に答えていただいた「無」の中の「ある一つのものがある」
について思い出しました。
私の持っている「ある一つのもの」それが「命」
全ての全存在に与えられた「ある一つのもの」。
それを記録の中からまた読み返しました。
あの時理解できなかったそのことを掃除しながら気づかせていただきました。
ありがとうございます。
 

「罪」とは何ですか?

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月14日(土)19時46分2秒
  「罪」とは何ですか?


管理人


『罪とはキリスト教的な言い方をするなら『原罪』と解釈してよいと思います。仏教的な言い方をするなら『業』だと思います。

生きている事自体で『心が苦しくなる』と言った意味だと思います。或は心に湧き上がる『不安感や違和感や恐怖感』等の総称と言っても良いのかも知れません。

仏教的な説明をするなら、釈迦が唱えた『一切皆苦』と言った意味だと思います。

こう言った事柄には説明が可能と思います。何故『人間は苦しまなくてはいけないのか、という事と、どうしたらその苦しみから解放されるのか?』という内容です。

これ等に関して、簡潔な説明をするなら『脳科学、或は脳医学』で説明するなら最も簡単に説明が出来ると思います。

違和感や不安感や恐怖感等が何処から来ているのか?がカギを握っていると思います。

精神疾患全般、或は自律神経失調症や難治性の原因が不明とされている疾患や、神経症全般や強迫観念とか脅迫行為も含まれると思います。

何処の世界であっても国が違うとしても、同じ環境に暮らしている中で、そういった訴えをしている人が一定の割合で存在しているようです。全く同じ家庭であっても、同じ学校であっても、同じクラスであったとしてもです。

こう言った独自の本人の訴えによる「生き難い想い」の事を原罪とか業と言って、医学の発達が見られなかった時代では『一まとめにして語っていた』と考えるのは間違いではないと考える事が出来ると思います。

仏教での釈迦の訴えは『一切皆苦』です、今風に言うなら『意識地獄』の事だと考えられます。何を意識して苦しい想いをしていたのかは?語られていませんので、分りかねる事だと思いますが、一種の精神疾患を表しているように思えます。

それは本人が『症状を意識してしまって』その症状に捕らわれてしまう疾患を指していると思います。

話す事をを意識して話せなくなっているなら吃音の事を指していると思います。

手が震える事が意識に上がってしまって苦しむといった状態の場合もあるようです。

消化器系や自律神経系などの機能が不全ではないのかと意識に上がって苦しむ事もあるようです。

強迫観念や脅迫行為が意識に上がって苦しむ場合もあるようです。

湧き上がる感情を問題にする時は感情障害という様に全ての症状の奥に存在しているものは、自意識過剰の状態だと思えます。

症状らしきものを『忘れていたり、問題にしていない場合では』疾患になる前や治った状態と同じになっています。

又如何なる検査を精密にしても、異常が見つからない事もこう言った疾患には付いて回っています。

では原因を解説します。原因は本人が頭の中で作り出しています。他人とか、環境が原因ではありません。

今書いた疾患は、症状としては、皆違う様に見えていますが、原因はたった一つだけです。本人が自身の病識から納得出来るように説明するなら、本人が感じている心的な圧迫感は、本人の脳から発信されているものです。」

何処から押し寄せてくるのか分からない『得体の知れない、心的な圧迫感』或は違和感の事を、原罪とか業と表現していると思います。

キリスト教でも仏教でも『晴れ晴れとして雲一つかかっていない頭の中の状態』を、天国とか極楽とかと表現しているように見受けられます。

こういった天国や極楽の反対語は『地獄』になると思います。はっきり書くなら『意識してしまって苦しい状態=意識地獄』と表現出来ると思います。

この天国に一番近い存在は、仏教では嬰児、キリスト教では幼子になります。この理由は簡単に表現出来ます。それは脳が未発達の状態だからです。

脳の機能が未発達のために『心が一つの者』として働いているからです。

思春期頃から精神疾患等が始まったり、増えてくるようですが、脳の機能分化が進んで、脳内の機能分化を受けて『心が二つに分かれて争いが始まるからです。』

左脳と右脳の機能は全く異なっています。簡単に説明すると右脳は『命そのものを働かせている機能』から成り立っています。ついでに書くなら、自分が『何処からやって来て、又何処に帰って行くのか』もっとはっきりと書くなら、『自分は永遠からやって来て、又永遠に帰って行く事』さえも熟知しています。何も教えて貰わずとも全てを知り尽くしている存在、と表現出来ると思います。

もう一つ、ついでに書くなら、自分の生命維持活動の全てを賄っています。遺伝子のレベルでの活動さえも熟知している者という言い方さえも可能です。

それに引き換え左脳=『自我意識』は学んだ事しか理解出来ない存在と言えます。そうしてその機能とは計算する機能が全てという事になります。計算する機能という意味は『割り切れる事だけが、その機能』になっているという意味です。

脳卒中のために左脳と右脳の機能の違いを、自らの脳の体験として語っている動画がありますのでご紹介したいと思います。しかもその人は脳科学者です。

https://www.youtube.com/watch?v=AZZ1vXerxYQ
 

斎藤 様へ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月 9日(月)08時53分26秒
  悟りを語るのは、便宜上の話です。語る事によって恐怖症などの正体を解明して、不安心即安心の舞台裏を説明出来きるからです。

又二度と後戻りをしない神経症の治りも、同時に説明出来ると思うからです、ですが悟りの説明をしても、此処まで到達出来る事は、大変に稀な事だと思いますので、こういった意味では無駄が多いのかも知れませんが、もしも到達する人が現れるなら、あながち無駄ではないとも思います。

一つの道しるべになるなら有り難いと思いながら書いています。

悟りを語る事は、不安な心が『大安心に替わる』契機と、心理的な側面と、脳科学的な事実を同時に語っている事を示していると思います。

そういった意味で『鈴木大拙博士』の書いた書物をお勧めしている次第です。その大安心に至るまでの経緯が、先生の書物に書いてあります。悟りを語る事は大変な困難を伴いますが、至るまでの道筋が詳しく出ていますので、大変参考になると思います。

私の場合も鈴木大拙博士の書物のお陰が大部分を占めていると思っています。
 

仏教の悟りを言う人がいる

 投稿者:斎藤  投稿日:2017年10月 6日(金)15時55分6秒
  神経症の人の中に仏教の悟りを言う人がいる。健康な人の誰が悟りなんて分かるであろうか。
悟りを知らなくても 人生は楽しい。嫌、悟りを知らないから楽しいとも言える。

あるいは症状に対して感謝なんて言う人もいる。神経症は病気であって、病気は感謝の対象ではない。
少しでも早く軽快したい対象で、一刻も早く解決したい対象である。
 

斎藤 様へ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月 6日(金)07時46分55秒
  インターネットの仕組みや、ホームページやコンピューター等の扱い方は、この年になった自分には分かる訳がないと、もう諦めている部分があります。

斎藤様に置かれましては、こういった私の認識とは違う対応を取られているようで、頼もしい存在となっているようです。

神経症かどうかとか、神経症が治るとか、治らないとかに関しては、余り頓着する事が無くなったように思います。

只やっている事は、毎日の課題を淡々とこなして行く事だけと思ってやっています。ホームページに割いている時間が段々と少なくなっている気がしています。

 

元に戻って良かったですね

 投稿者:斎藤  投稿日:2017年10月 4日(水)10時55分28秒
  管理人さん、元に戻って良かったですね。私、やはり神経症者って駄目だなと考えていた
のです。日和見と言うか気まぐれです。神経症と言われたくないなら、物事をコンスタントに
する。これ絶対ですね。
 

いつもありがとうございます。

 投稿者:自然Yukiko  投稿日:2017年10月 3日(火)20時24分0秒
  お久しぶりです。
「やすらぎの郷」という番組が終わりました。豪華なキャストで日々楽しみにしていました。
私にとっては神的存在の中島みゆきのうた毎日聴けたし。
いつまでも変わらないあの方達を見ていて自分が味わったあのやすらぎのひとときを思い出しました。
きっとそういうことを表現していたのではないかと。いつかやすらぎの仲間と共の世界へ。
日常の使う言葉ですが。
精神。神経。神という字はどうして使われているのですか?
 

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